ホーム > 企画連載:情熱法律家ー裁判員制度をめぐってー > 第1回:若狭勝弁護士/第1部


第1回:若狭勝さん(弁護士)

元検察官で東京地検特捜部にも在籍していた若狭勝弁護士。「裁判員制度が実施されることで弁護士の果たすべき役割と重要性が一層高まる」との考えから、26年間務めてきた検察官の職を辞めて、弁護士としての活動を2009年4月から開始しました。
検事時代から被疑者・被告人が語る話を、真摯に「聴く」ことを大切にし、刑務所を出所後に若狭弁護士を訪ねて来たり、電話をかけてくる元受刑者もいるそうです。
そこで裁判員ネットは、そんな若狭弁護士に裁判員制度に対する「想い」を伺うとともに、私たち市民が抱く素朴な疑問をぶつけてみました。

プロフィール
若狭 勝 弁護士
東京地検特捜部検事、同副部長、横浜地検刑事部長、東京地検公安部長などを歴任。東京地検特捜部検事としてゼネコン汚職事件などの捜査に携わり、副部長として談合事件捜査の指揮なども執った。その後東京地検公安部長として組織犯罪・麻薬犯罪・外国人犯罪等の捜査を指揮した。2009年3月に退官。4月より弁護士としての活動を始める。


第1部:なぜ裁判員制度は導入されたのか。―その背景にある刑事司法の問題点とあるべき姿―

インタビュアー今日は、今年の4月まで検察官として数々の事件を担当されてきた若狭勝弁護士にお話しを伺いたいと思います。若狭先生、一般市民の感覚からすると、これまでの刑事司法にどういう問題があったから裁判員制度が出来たのかということが、実はよくわからないまま「気がついたら制度だけ出来上がっていた」というのが率直な思いです。そこでまず、これまでの刑事司法にはどういう問題があったのか。そのことについて伺いたいと思います。また、若狭先生の場合は、それまで検事というお仕事をしていて、裁判員制度が開始されると共にその立場を弁護士に変えたというところには、非常に大きな「想い」があったのではないかと考えます。つまり、目指すべき司法の在り方のようなものが先生の中におありになったのではないかと。その辺りも含めて「想い」の部分もお話しいただきたいと思います。

刑事司法の曲がり角

若 狭はい。まず、裁判員制度がなぜ導入されたのかということについて言えば、私自身は直接その導入プロセスに関与していないのでその辺りの詳しい事情は知りません。しかし、いずれにしても刑事裁判が判決までに非常に長期にわたっていたという問題点があったというのは確かだと思います。その辺りの問題意識から導入されるということになったと思われるのですが、私自身の検事としての感覚を申しますと、実は平成5年のとき、私は「刑事司法の曲がり角」という演題で講演したことがあるのです。まさしく「曲がり角」ということで、ちょうど「曲がり始めたのではないか」と、検事の仕事をしていて思いました。

これはどういうことかと言うと、刑事司法というのは、捜査をする際に参考人から事情を聞くなどをする必要があるわけです。ところが、その参考人の出頭のお願いということがそれより以前に比べて、かなり難しくなってきたのです。つまりその事件は目撃しているのだけれども、なかなかそれを警察ないし検察庁に来てきちんと話してくれる人が少なくなってきている、と。

裁判員制度というのは「我がこと」として刑事司法を考える

若狭勝弁護士若 狭しかしながら、刑事裁判ないし刑事事件・刑事司法というのは、そうした目撃者などは極めて重要なことでして、いわば「協力」がないとなかなか証拠がきちんと集まらないということですので、非常に大きな問題なわけですね。そうした問題点をすごく私は感じておりました。このような傾向はおそらく少なくなることはなく、今後はどんどん増えていくというふうにも思われました。

そこで裁判員制度というのは、私の考えでは、「我がこと」として刑事司法を考える、というふうに言っているのです。つまり刑事事件ないし、その捜査・立件・起訴・有罪・犯人の処罰というのは、結局はわれわれ市民が全部一人ひとり、いわば隣り合わせにある事情・状況だと思うのです。今、この世の中において、ある時パチンコ屋でパチンコをしていたら、いきなりガソリンをかけられて死に至ってしまう・・・。というような、まったく予測がつかないような事件というのが多発しているわけですが、そういった事件をいかに少なくするか、ということが市民の生活の平穏に直結するわけですよね。

そのためには、市民一人ひとりが犯罪情勢とか自分達の住んでいる周りにおいて、どのような犯罪の情勢にあるのかというのを、「興味」と「関心」または「関心を持ちながら監視をする」と。自分の地域の中に不審な者がいるかどうか、不審な者が来たかどうか、もしくは自分のマンションに不審な者が入ってきたかどうかというのを、関心と監視をするということが非常に重要なのです。

いわゆる「ブロークンウィンドウズ理論」というものがありまして、「割れ窓理論」と言います。家の窓ガラスが割れたままにしておくと、結局そこの地域社会ないし住民は、割れたままのガラスをそのままにしているということは、要するに「周りを見ていない」というか、「監視の目が行き届いていない」というふうに見られがちだと。そうすると、監視の目が行き届いてないということになるので、そこに万引きとか窃盗とかいうのが増えてきて、それでもまだ監視の目が行き届かないということになると、やがては強盗とか強盗殺人が起きてしまうと…。

ですから、割れたガラス窓はそのままにしちゃいけない。きちんと監視して、もしくは関心をもって窓を修復するのです。

インタビュアーニューヨークの地下鉄で落書きを消すというのが、そういうことから始まっていますよね。

若 狭まさしくそういうことで、割れ窓理論をやはり実践するためには、つまり監視をする。監視をすることによって地域社会の犯罪というものを減らして、自分達一人一人の生活の平穏を維持していくためには、そうした監視をする。「他人ごと」ではなくて「我がこと」として身の回りの事・身の回りの出来事・犯罪情勢・犯罪・不審な者というのに対して目を配るということが大事だと思うんですね。そういったときに、裁判員制度・裁判員裁判というは、まさしく刑事司法ないし犯罪というものに市民一人一人が関心と監視をもって、周りの犯罪情勢等をみる良い契機になると思うのです。

ですから、裁判員制度というのは、導入経緯はともかく、その目的というか効果はこうしたまさしく市民一人一人の生活の平穏に直結する、まあ、直結とまでは言わないにしても、間接的ながら関連していると。極めてやりようによっては意義のある制度だというふうに考えています。

身近なこと、社会のことを考えるきっかけに

若 狭これまでの裁判員制度の広報活動として、最高裁などがやっていることは、私としては話として「半分・半面しか言っていない」のではないかと思います。「司法に対して国民の理解を得る」というようなことを言っているのですが、それはその通りだと思うのですが、それだけではなくて、裁判員制度を導入することによって、逆に「その国民がどういうふうに変わっていく」のか。今までの最高裁などの説明は「司法が変わる」と、言わば一方通行のこちら側だけのことしか言っていないのです。そうではなくて、裁判員制度を導入することによって、「今後の社会や国民の意識がどのように変わっていくのか」ということなども説明すると、市民一人ひとりが、裁判制度というのは決して、単に「司法に対する理解」どうのこうのではなく、自分達に直接関ってくる、もしくは間接的に関ってくるという意味においては、「自分達の身の回りの犯罪や、身近なこと全てに関ってくる問題」として色々と考える契機になるいい制度ではないか、というふうに考えてもらう余地が出てくるのではないかと思うのです。

インタビュアーそうですね。だから市民としては「それで何が変わるのか?」いうことが、残されてしまっている感じがします。もともと「自分も犯罪に巻き込まれたこともないし、これからも犯罪を犯すつもりもない」みたいになってしまうと、やっぱり「我がこと」ではなくて、「関係ない世界」の話にとどまってしまうと思うのです。

情報をきちんとオープンにすることが大事

インタビュアーたとえば、制度について一般には知られていないことが多いのが実状だと思うのです。そこで、市民に「伝える」ということが、今後ますます重要になるのではないかなと思うのです。若狭先生なりに「伝える」ための何か仕組みとかアイデアとか、そういうものはありますか?

若狭勝弁護士若 狭アイデアというか、およそこういう新しい制度を始める際には、「情報をきちんとオープンにする」ということが大事だと思うんですよね。そうしないと国民ないし市民は適正な判断ができないということがあると思うのです。

たとえば、私はよく言っているのは、裁判員裁判において、「9人でやる」ということは皆さん当然知っていますよね。裁判官が3人、裁判員が6人の合計9人でやるというのはもうほとんどの人は知っていると思います。しかし、実はこの裁判員法には、「5人制」つまり裁判官1人と裁判員4人の合計5人で裁判員裁判をすることができるという規定があるのです。おそらくこのことは、法律家、おそらく検事の中でも知らない人が結構いるのです。

こういうことを、まず情報をオープンにして、なるべくみんなにどういう状況なのかっていうのを正しく知ってもらい、それで色んな判断をしてもらうっていうのが、とにもかくにも大事だというように思います。

今の例で言いますと、たとえば5人制で裁判が1日終わるということだとすると、「1日だけなら、じゃあ裁判員になっていいよ」という人がもう少し増えるかもしれないと思うのです。というのは、選任手続きでは1日で行うわけですよ。選ばれなかったら、「はい、じゃあなた結構です」と言われるのですが、その人は、1日は少なくとも会社やなんかを休んでいるのです。そうすると裁判所に来た以上は、「今日1日で終わるなら、じゃあやってもいいですよ」と。「どっちみち来たのだから」という人はいるわけですよね。そういう意味では裁判員になってもいいという人は、もっと増えると思うんですよ。そういうようなことで、裁判員に対して「なってもらえる人」を、もう少し増やすとかいうようなことを考える必要があるのです。そのためにはきちんと情報をオープンにしないといけない。まさしくだから、そういうところが無くして、いかにも「9人でやるのが当たり前」で、しかも「3日4日ぐらいかかるのが当たり前」で、「国民の皆さんの協力をお願いしますよ」、というのでは、半分しか伝えていないのはないかと思うのです。

いろんな選択肢がまだ隠されている/いろんな選択肢を用意する

若 狭そういう形で、いずれにしても色々な選択肢がまだ隠されているのです。オープンになっていないところがあるのです。それを言って、「それだったら私はできるよ」とか、というような形で、それをどんどんどん集積していくことが裁判員制度そのものの基盤を極めて強固にする、というふうに思っているのです。

インタビュアー議論の前提になる情報がないと私たちも実感しているところです。そういう状況にもかかわらず、いきなり「裁判員制度について賛成ですか?反対ですか?」みたいな問いが先に立てられてしまう。でも、いきなり制度への賛成とか反対とかじゃなくて、もっといろんなことを私たちは知るべきですし、在り方を考えても良いのではないかなって思うんです。

若 狭ですから、これは運用の仕方なのですが、中には「私は会社勤めを終えて、年金暮らしで、時間的にはゆとりがあるから、べつに5日じゃなくてもいいですよ」、と本当に冤罪とかが問題になるような事案であれば、「別に2週間でも10日でもいいですよ」って言ってくれる人もいると思うんですよ。それによって、リタイアした後でも社会に参加できると実感できるわけですから、そういう人たちもいると思われるので、そういう人たちには長めにやってもらう。逆に、介護だとか教育だとか仕事の関係で1日しかできないという人でも1日はやってくれると、達成感とか社会に参加したとかいう達成感は残るわけです。それは裁判員制度の維持存続には決してマイナスにはならないと思うのです。

ですから、そういうバリエーションに富んだ形で、一人ひとり皆さん置かれているライフスタイルとか仕事とか全部違うわけですから、それを「十把ひとからげ」にしないで、違うなりに「色んな選択肢を用意する」ということが、僕は非常に合理的かつ、これからの裁判員制度を動かしていく上においては大事なのではないかと考えています。

インタビュアー私もそれは同感です。なんか「パチッ」と一つの型にはめて「裁判員裁判はこういうものですから、みなさんどうぞがんばって合わせてください」みたいな感じになってしまっていて。でも「大き目の制服を着せられているんだけど、ちょっと合わないんだよね・・・」みたいな人って多分いっぱいいると思うのです。

※敬称略
インタビュアー:坂上暢幸(裁判員ネット理事)
(第2部に続く)




COPYRIGHT (C) Saibanin.net.ALL RIGHTS RESERVED.